Styx
ある街のことを、なんども夢に見る。
といっても、現実にある街じゃない。ぼくの頭のなかにだけ、ある街だ。
とはいえ、夢だから、現実との因果関係がない。そのために、生活するうち、忘れる。まったく予期せず、眠りにつく。
すると、また、あの街にいる。
だから、さきほど見た夢が、もう何度目のことであるかさえ、ぼくは思い出せない。
ただ、確かなのは、目覚めた心が、真夜中の闇にむかって、あの街に帰りたいと、訴えていたことだけだ。
寝返りをうち、目を閉じたが、寝られない。
寂しくて、寝られない。
だから、ぼくはいま、寝巻きのうえにガウンを羽織って、これを書いている。
指のあいだから、砂がこぼれるみたいに、夢の印象が消えていく。
早くしよう。
こんな夢を見た。
湖のほとりの、背の高い木にかこまれた草原で、幼い少年が、こときれている。糸が切れた人形みたいに、四肢が投げ出されて、だらんとしている。衣服の首もとに、金属製の、認識表みたいなプレートが、ついている。
ぼくは、こわくなって、森のほうへ、逃げ出す。
森のなかを歩きながら、空をもとめる。木々と、霧とに遮られて、色が、よく見えない。
迷っているはずだが、迷っている気分がない。どこから来たとか、どこへ行くとか、考えない。抽象画みたいな森のなかを歩く。
だんだんと、まわりの草木が、人の手が入っている感じになってきた。地面が、草のはえた土から、かためられた、茶色い土になってきた。
やがて、よくわからない素材の、歩道に出た。それに沿って、歩いた。
公園らしかった。
霧で、ぼんやりしてた。
いま、思うと、そこは、早朝のロンドンのハイド・パークに似ているようである。
所見を述べておくと、この街は、ぼくがいままでに訪れたことのある、すべての現実の街でみた、印象的な風景の、パッチ・ワークであろう。田園もあれば、摩天楼もあって、どれくらいの広さなのか、想像もつかない。事物ぜんたいに、文化的な統一感がないが、にもかかわらず、それらは一見して、矛盾のないやり方で組み合わされている。
たとえば、アムステルダムのそれと似ている、ちいさなトラムの一両が、山手線のどこかだと思われる軌条の高架を、ごとごと、ゆっくり走ってる。
ぼくが、あの少年のむくろから逃げだして、乗車した駅は、大阪の、万博公園駅みたいだったが、あれは、現実では、モノレールだったはずだ。
とにかく、街ぜんたいが、そんなふうで、奇妙で、可笑しい。
ぼくの乗ってるトラムが、高架の軌条のうえを行く。
車内は、がらんとしてる。
ぼくは、立ったまま、乗車口のガラス窓に、おでこをあてて、街を眺めてる。このあたりは、来たことが、あるような、ないような感じだ。
わけもなく、寂しい。窓ガラスから、おでこを離す。車内を見回すと、車両のつくりが、まったく変化している。トラムというより、観光用のケーブル・カー、みたいになっている。
夢を見ているぼくは、そのことを疑問に思わない。
ケーブル・カーのガラス窓は、広々として、街が、よく見渡せる。
だいぶ、進んだ。いま走っている、このあたりは、鉄の骨組みが目立つ、頑丈そうな建物が多いが、ぜんたいに、煤けて、さびれている。
近くに、工業地帯があるからだ、と、ぼくはなぜか、知っている。
その、知っているという感じに、親しみを覚える。
それと同時に、うまく言葉にできない違和感を、街のありように、覚える。
現実の話。
以前、沖縄の、石垣島を訪れた。本州の街とは、ちがうなあ、と思った。シーサーや、石敢當なんかの存在だけじゃない。もっと、根源的なものだ。
その違和感を、よおく観察して、やっと、わかった。石造り、ないしは、コンクリートの建物が多くって、明るい色に塗られてて、四角くって、箱っぽいのだ。
あるいは、中国の、深圳という街を訪れたとき、ある貧民街で、マンションのヴェランダすべてに、鉄柵が張られていた。そこに、エアコンの室外機が、鉄線で結びつけられてて、上下左右に、いくつも、いくつも並んでた。そのうちのいくつかには、プランターがのっけられて、花が咲いてたり、蔓が巻き付いたりしていた。
そのような、ふだんの街との差異をつきとめることで、異郷の違和感は、晴れるものだ。
だけど、ぼくは、ぼくの夢のなかの街がもっている違和感を、夢中で、どうしても、つきとめられない。
起きたあとでは、目の前にないから、もう、調べようがない。
にもかかわらず、夢を見ているぼくは、その違和感そのものに、みょうな親しさを覚えている。それは、すごく久しぶりに、故郷に帰ってきたような感じである。
車窓のむこうで、霧が、だんだんと、晴れていく。
もう、工業地帯を、抜けている。
このあたりは、ごみごみしていて、中くらいのビルが、たくさんある。
古ぼけてはいるけれど、人影も、ちらほらあって、活気めいたものが、ある。
降りるつもりの、一駅手前に停車中、車窓から、通りが見える。建物のあいだに、万国旗が、ロープで吊るしてある。
それらの国旗は、ひとつも、見たことがないものだが、しかし、知っている。
うまく説明できない、無意識に固有の、ある独特なやりかたで、ぼくは、この世界を覚えている。
万国旗が、風にはためく。
とたん、ぼくは、この街には、ほんとに来たことがあるぞ、と思う。
そして、ぼくがもっている、この違和感そのものが、この街にたいする、いつも変わらぬ印象だったのだ、と確信する。
そのとたん、ぼくの寂しさは、湖面に、さあっと風がふいて、色が変わるみたいに。懐かしさに変わる。
——帰ってきた。
——ああ、やっと、帰ってきた。
と、ぼくは思う。
当然、駅前で、女の子が待っている。
いや、当然っていうと、おかしいんだけれど、でも、ほんとに当然だと、思ってる。
それくらい、ぼくらは自然に笑顔を交わして、ずいぶんにぎやかな、街のほうに、歩きだす。
きっと、まえに、この街に来たときに、彼女とデートする約束をしたんだろうと、推量する。
その推量は、事実と、見分けがつかない。
ぼくは、彼女のセーターの色や、新しくなった髪型や、これどう、って見せてくれたネイルなんかを、よく見る。
いいね、と、ほんとに思って、そう言う。
にもかかわらず、これを書いている、目覚めているぼくは、彼女の姿を、顔を、瞳を、まったく、思い出すことができない。
彼女のセーターも、髪型も、ネイルも、みんな、現実にはないような、色と形をしていた、気がする。
あの街そのものと、おなじように、ちょっとだけ、ちがってた気がする。
だけど、もう、思い出せない。
ぼくは、彼女と歩きながら、街中に、唐突にあった、でっかい鏡に、自分を写してみる。
その姿を、見ると同時に、胸がずきんと傷んで、手のひらを、痛むところにやる。服のうえから、かたく、つるつるした感触がする。おかしいと思って、首元を引っ張り、腕をつっこむ。
手の先に、ひやりとした、金属の感触がある。それは、皮膚に、埋め込まれている。
ぼくは、それを撫でながら、なにかを、深く納得する。
どうして納得しているのか、りくつは、わからないのだが、しかし、深い納得の感覚がある。
諦念にも似た、悲しみがある。
そんな気分で、鏡のなかの、自分を眺める。
——いいじゃん。きまってるよ。
と、彼女の声が、天から降ってくる。
夢のなかのぼくが着てた服は、どんなだったろう。シルエットも、色も、生地の肌触りも、確かに、そこにあったのに。
ただひとつ、覚えてる。スウェットの胸元に、刺繍があった。
ほんとうは、もっとべつのことが、書いてあったような気がするのだけれど、記憶には、こう残ってる。
「Dead mates are alive in us.」
(死んだ連中はぼくらと生きてる。)
そしてまた、彼女が、
「こういうの、着てみたら。きみに、似合うとおもうよ」
と、言ったことだけは、はっきり覚えてる。
ぼくらは、夢のなかで、デートをする。生簀に浮かんでる、よくわかんない魚の鮨をたべ、ぼくが現実で訪れたことのあるすべての喫茶店の平均値みたいな喫茶店で珈琲をのみ、季節的というよりは幾何学的なウインドウ・ショッピングをして、美術館の抽象画を眺めたあと、ふしぎな格好の屋台で、ある種の焼き菓子を買い、歩きながら食べる。
見た目は、クレープとチュロスと今川焼きの中間みたいな菓子で、ぼくは、ぜんぶはいらないから、一口だけ、わけてもらう。
さくさくしていた、気がする。
甘くて、うまかった気がする。
ただ、確かなのは、それを食ったとたん、いじわるが言いたくなったことだ。
いじわるが言いたくなるような成分が入ってたのかもしれない。
「太るぜ」とぼく。
そしたら、彼女は、
「いいの、あとでもっと運動すんだから」
すると、空中に人がいる。空の、高いところに、男とも女ともつかない、誰かが、浮いている。空ぜんたいに広がった、薄い雲が、銀色に輝いて、その逆光で、顔つきや身体つき、着ているものが、よく見えない。
人々が、いろんなやりかたで、祈りの仕草をとる。
「だれ、あれ?」とぼく。
「神さまよ」と、彼女は、両手を組み合わせる。「ほら、十字が見えるでしょう?」
言われて、ぼくは、目を細める。
見えるような気もするが、確言できない。
ふたりで、観覧車にのる。
現実の、街のなかにもありうる、ちっちゃいやつだ。
だけど、それは、マイナーな、古い遊園地のやつみたいに錆びてて、それが、すごくいやな感じだ。
「なあに、怖がってんの?」と、乗る前も、乗ったあとも、彼女は言う。同時に、言ったような気もする。 すでに、観覧車は、円周の頂点にある。
「ちげーよ」とぼくは言う。「ぜんぜん、こわくねえし」
そしたら彼女は、すっと立ち上がって、白い腕をにょきっと伸ばして、籠のなかのパイプをつかんで、身体をゆする。
籠が、がたがた揺れて、金属音が、ぎしぎし言う。
ほんとにやばそうな、音と揺れだ。
ぼくは、わあっと叫ぶ。
やめてくれ、降参だ、って言う。
そしたら、彼女は、ぼくと目をあわせて、
彼女は、ものすごく怒ってて、
「あたしを、こんなに待たした、バツ!」
動物みたいに、もっと、揺らす。
ぼくは、はっとして、
「悪かった」——これはいま、目覚めているぼくが、つくった台詞だけど——「もう、二度と、きみのそばから離れない!」
というような、ことを、言おうとする。
だけど、間に合わない。
大きな音がする。
高層ビルのエレベーターで、降りはじめたときみたいに、身体がふわっと浮く。
ぼくは、彼女を抱きしめようとするけれど、手が、届かない。
彼女のスカートの、布地の感触だけが、わずかに手に残る。
ずどんと、音がして、水のなかにいる。
つまり、観覧車は、街中を流れる川の、ほとりにあったんだ。
で、ぼくらは、沈んでいく籠の、水圧で割れた窓ガラスから脱出して、川んなかを泳ぐ。
でも、どっちが上か、わからない。すごく、暗い。映像がない。まったく、見えない。
見えないんだけれど、彼女の感じだけは、近くにあって、ぼくはそれに、必死に、ついていく。
ぼくらは、水族館みたいなところにいる。
暗い。
青っぽい照明が、廊下を照らしているが、両脇の水槽のなかに、ライトがない。
水が、入ってるんだろうけれど、真っ暗だ。
廊下も、奥のほうは、暗くて、見えない。
ここはまだ、やっていないのだろうと、ぼくは思う。
すぐそばの、暗い水槽に、でっかい影が、ぬっとあらわれて、消える。
ぼくは、怖い、と思う。
五メートルくらいは、あったんじゃないか。
それで、誰かに、これはいったい何だって聞こうとして、誰もいないことに気づく。彼女が、そばにいないことに、気づく。
ぼくは、人のいない、水族館みたいな建物のなかを、歩きだす。
その建物は、恐ろしい。
暗い廊下。なにが潜んでいるかわからない、暗黒の水槽。温度と湿度、靴音の響き方。
つまり、建物の構造そのものが、ぼくの恐怖を表象している。
ぼくが感じている恐怖の種類は、すでに、落下による本能的恐怖から、存在の恐怖へと、移行している。
すごく長いこと、歩いた。
とつぜん、暗闇のなかから、白い腕が、にょきっと伸びて、声がした。
「あたしについてきて」
その手は、ぼうっと光ってて、薬指には、リングがはまってる。
——ああ、これ、ぼくがあげたやつだ。
と、ぼくは思う。
……これは、不思議なことだ。なぜって、ぼくは、結婚をしたことがない。
誰かの指に、約束をはめたことなんて、ない。
とにかく、ぼくは彼女の手をとる。
即ち、ぼくは、外にいる。
外にいて、座ってて、ぼくの右手には、かたい木の棒が、オールが握られてて、左手には、彼女の手……。
そう……。
つまり、ぼくらはボートに並んで座ってる。
ふたりで、片方ずつ持って、息を合わせて漕ぐ、遊びを、やってたんだ。
さいしょのうちは、いち、に、とか、かけ声をして、やってたんだけど、すぐ慣れちまって、ぼくら、もう、静かに、ゆっくり漕いでた。
……どこを?
……川だ。
下りだ。
ものすごく、濃い霧が、かかっている。
現象のぜんぶが、おばけみたいに見える。
けど、ぼくらは、気にしてない。流れは、穏やかだ。
うっすら見える、両岸には、水草が、はえてる。
芒の群れが、バスの事故でまとめて死んだ修学旅行生たちの手みたいに、ゆらゆら、揺れてる。
ぼくらに、さよなら、さよならって、言ってるみたいだ。
「ごめん」と、彼女が、ぼくの左側で、言う。「あたしのせいだ」
「ちがう」と、ぼくは答える。「ぜったいにちがう」
それで、彼女が黙ってしまって、ぼくは虚しい。
船が、岸に着く。
ぼくらは、降りて、葦をかきわける。
草のうえに、少年のむくろがある。
戻ってきたのだ。
霧のむこうで、朝日がさして、すべてが黄金色に輝く。
ぼくは、彼女の手を握ったまま、少年を見下ろす。
眠っているみたいに、きれいだ。
朝露が、睫毛について、泣いていた、みたいだ。
「これ」と、彼女が言って、ぼくの手を離し、ぼくの手に、リングを乗せる。指輪を、乗せる。
ぼくは、それを握りしめる。
「また、来るよ」と、ぼくは言う。
「待ってる」と、彼女は言う。「ここで、ずっと」
とたん、ぼくは、彼女を抱きしめたくなる。
けれど、ぼくには、もうわかってる。
この少年がぼくで、この朝霧が彼女で、ぼくらはここにはいないから、ぼくらは最後に口づけをして、別れなければならない、もういちど目覚めるために。
そんな夢だった。
いま、ぼくは、彼女が誰だったのか、思い出そうとしてる。
書き物に、集中したくって、真夜中なのに、とうとう珈琲をいれちまった。うまいが、こりゃあ、しばらく、寝れないだろうな。
……だめだ、しばらく考えたけど、彼女が誰なのか、わからない。
窓の外は、暗い。
真夜中だから、とうぜんだ。
ぼくは、しばらく考えて、ふっと思考を緩めた。そしたら、キーボードのそばに、指輪が置かれているのに、気づいた。
目覚めたあと、当然のように、デスクに座って、手のなかに握られていた、指輪を、キーボードのそばに置いたのだった。
そのまま、夢中で、これを書いていたのだった。
この指輪は、ずっと前から持っていた、ような気もするし、手に入れたばかりだ、という気もする。
いま、それはぼくの手のひらのなかにあって、固い。